電話にでんわ

仕事に行き詰まりを感じた時。そんな時、僕は、電話を受ける事に集中する時間を取る。あの頃を思い出しながら・・・。

コールは三回待つ。以前の職場では、音が鳴った瞬間に受話器を取るよう訓練されていた。突如開催される受話器取り合戦。どんなに頑張っても、トレーナーのTさんには勝てなかった。Tさん、あんた元気かい?まだ生きてるのかな?

現在の職場は緩い。皆、相手にスリーコールの余裕を与えている。しかし、Tさんという鬼軍曹によって鍛えられた自分は、もはやスリーコールを待つ時間が苦痛でならない。受話器を早く取りたい・・・身体中から脂汗が流れ、全身に震えがくる。受話器受けの禁断症状だ。恨むぜ、Tさん。俺をこんな身体にしちまったのは、あんただぜ。地獄のように長いスリーコールが過ぎ、高く振り上げた左手を村田兆治のフォームの如く受話器目掛けて振り下ろす。Tさん、確かこのフォームもあんたがおれに仕込んだ受話器の受け型だったな。同時に右手は、机上のメモ用紙をスッと引き出し、ボールペンを握る。そいつをいつでも書ける状態にスタンバイする。

「相手にワンコールも与えずに出ちまったら、かけてきた相手がビックリしやしないですか?」思い切って、Tさんに聞いた事がある。Tさんはこう答えた。「そいつは違うな。いいか、人の心ってやつは変わりやすいんだ。自分がかけた電話のコール音を聞いてる間に、気が変わったり切っちまったりする。だから、相手にそんな時間を与えてはいけないんだ。わずかな時間も与えるな。即、取り、即、撃て」そして、お決まりのキメ台詞がこう続く。「女を落とす時も一緒だ。女に考える時間を与えるな。即、ホテルに連れ込み、即、倒して、即、撃て」

そんな事を教えてくれたTさんだけど、ものすごく女っ気の無い人だった。噂では、自分のお母さんより年上の風俗嬢と付き合っているだとか、老婆とコンビニで買い物をしていただとか、ヤマンバのようなババアと並んでパチンコ打っていただとか、恐らく「女は同一人物」と思われる目撃談が各所から寄せられていた。今思えばあれ、もしかしてあんたのお母さんだったのかい?Tさん。

ある日の受話器取り合戦で、Tさんがこっそりと受話器を軽く持ち上げ、フックを指で押さえて、「かかってきた電話をフックを上げる事で取る」というテレクラ・スタイルの裏ワザを使っているのを、偶然、僕は見てしまった。テレクラ・スタイルは、会社内では禁断の禁じ手とされ、使い手は皆から軽蔑されていた。その日以来、僕はTさんから距離を置くようになった。

Tさん、今、何してる?あんたが仕込んだ受話器受けの型のおかげで、俺の肘はもうまっすぐに伸びない。150度の角度がついた野球肘になっちまったよ。野球なんて、生まれてこの方、まともにプレーした事ないってのにな。そんな曲がった肘を眺めながら、僕は相手が切った事を確認した後に、ゆっくりと時間をかけて静かにそっと受話器を置いた。